スパイスの歴史は世界も日本も人類の歴史と寄り添うほど長くて、そして奥が深い。その歴史をそれぞれ深堀りしてみましょう。
世界のスパイスの歴史
スパイス大国インドは歴史的にもスパイス・オリジン国
現代のスパイス大国でもあるインドにおいては、今から約5000年前、紀元前3000年頃から既に黒コショウやクローブといった香辛料が使われていました。そして、紀元前頃には黒コショウやクローブ以外にもターメリックやシナモン、ジンジャー、カルダモン、などメジャーなスパイスは利用されていたと言われています。
また、もうひとつのスパイス大国でもある中国でも、紀元前2500年ころお酒やご飯にスパイスを加え香酒・香飯と呼ばれるもが神に祀られるなど、神事に活用されていました。
古代エジプト、中世ヨーロッパの時代のスパイスは献上品に
また、紀元前の古代エジプトでも、スリランカ産のシナモンが運輸され王様に献上品として届けられたり、オリエントの産品として『Kinnamomon-』という植物産品が存在したりとスパイスが利用されていた記録が残っています。やがて、エジプトだけでなくヨーロッパ各地に知られる香辛料の種類も増え、紀元1世紀頃には海、陸のシルクロードを経てヨーロッパに香辛料が流入し始めました。この時代のスパイスは今のように原料や原産地がとても貴重で高価なものとして取引されていたようです。
さらに時は進み、時代が大きく変化するローマ帝国消滅やイスラム勢力隆盛、十字軍の遠征など、ヨーロッパ内外・東西の交流が困難になっていく要素が重なり、中世ヨーロッパでは香辛料は大変貴重で珍しいものとなっていきました。この貴重な香辛料を多量に使えることが貴族達の富のステータスを誇示する象徴となっていき、王侯貴族でふるまわれた会席料理では過剰すぎるほどの香辛料を使った料理が出回ったそうです。
一方庶民の暮らしを見てみると、古くから肉や魚を多く食べていたヨーロッパの人々は、内陸まで食材を運んだり冬期に備えたりするために肉や魚を長期保存する必要がありました。中世当時のヨーロッパではクローブや胡椒などには高い防腐作用があると信じられていたため、食材保存において欠かせない防腐剤として重宝されたそうです。(実際には胡椒の防腐効果はわずかのためおまじないに近い効果)また、水量の少ない地域では、体の洗浄不足と肉食が相まって体臭が問題になり、その体臭を消臭する役割として香辛料が大きな需要を得ることとなりました。また、香辛料の独特な香りが病魔退治に有効と信じられており、香として焚く用途など多目的で使われることが多かったようです。
貿易の歴史に目を向けると、当然これだけニーズの強い香辛料は独占市場が作られるビジネス構造となっていきます。中世ではムスリム商人がインド洋の香辛料貿易を独占し、ルネサンス期にはヴェネツィア共和国がエジプトのマムルーク朝やオスマン帝国からの輸入を独占。ポルトガルはヴェネツィアの香辛料貿易独占を打破するためにアフリカ大陸を廻り込み喜望峰経由でインド航路を開拓したと言われています。
大航海時代の突入とスパイスの関係
数多くの種類があるスパイスですが、クローブ、ナツメグなど一部の香辛料はインドネシアのモルッカ諸島でのみ産出されていました。また胡椒はインド東海岸やスマトラ島で多く生産されていましたが、それぞれはヨーロッパの人々にとっては貴重で非常に重宝されたスパイスでした。そのため、これらの地域と交易を行い貴重なスパイスを手に入れることが、国を保ち豊かにするために重大な関心事となっていきました。
まさにこのスパイスがヨーロッパの人々を世界進出に駆り立てた主役だったのです。造船技術や天文学などの科学技術の発達によって長期の航海が可能となったとき、300年にもわたる大航海時代の幕が開けました。ヨーロッパ人は大挙して新大陸やアジアに進出し、植民地化を行っていったのです。
このように、大航海時代のはじめは東側アジア圏に向けて香辛料を求める進出が続きましたが、貿易の主導権争いは徐々に激化していき、一部の人たちは西側にも目を向けるようになりました。クリストファー・コロンブスもその一人で、1492年にスペインのイサベル女王の賛同を得てスペインから西に出帆しました。結果としてコロンブスは香辛料の主産地であるアジア圏には到達できなかったですが、アメリカ大陸に到達し、その存在をヨーロッパ人の幅広い層に知らしめることになっていきました。アメリカ大陸では求めていたスパイスは無いものの、新しいスパイス種のトウガラシやバニラなどが発見され、その後すぐにヨーロッパに受け入れらることになりました。
日本のスパイスの歴史
「古事記」から日本のスパイスの歴史は始まる
日本のスパイスの歴史は遡ること1,300年ほど前、712年日本最古の歴史書「古事記」にて、当時の日本に知られていた香辛料類であるしょうがや山椒のことを言う「はじかみ」、にんにくについて記載されています。
また、734年の「正倉院文書」でもごまについて書かれていたり、その他の書物でもわさびなど日本を代表する和スパイスが書かれていたりと、日本でのスパイスも長い歴史を持つことがわかります。
ひとつ日本のスパイスの歴史で特徴的なのは、まず薬品としての用途が主で、その後長年に渡って漢方薬の材料などに使われました。世界のスパイスの歴史でも書かれているヨーロッパのようにスパイスを料理に用い、積極的な輸入や消費は日本では生まれませんでした。理由としては、日本では肉食文化があまりなかった点、様々な発酵調味料を利用した点などが挙げられます。食物の味を引き立てることが日本のスパイスの主要な役割であり、素材の香りを殺し、さらには香りの主役となるような主張した立ち位置になることは好まれていない文化だったようです。
薬品から食品へ 日本のスパイスの発展
その後、724年~749年の聖武天皇の時代にこしょうなど熱帯地方原産のスパイスが上陸するようになりました。こしょう以外にもクローブ、シナモンなどが貴重な薬として入ってきていることも正倉院の御物にあったことがわかっています。
またその後も中国との交易やヨーロッパ人の来航、日本からの東南アジア諸国への渡航などにより、クローブ、こしょう、唐辛子など様々なスパイスが上陸してきました。
唐辛子が日本に上陸してから、使い方に幅が広がりはじめ、食品としての認知と普及が急速に進みはじめました。和風唐辛子の代表格「七味唐辛子」の誕生です。
この七味唐辛子は江戸時代初期寛永2年(1625年)に、からしや徳右衛門が現在の東日本橋に位置する薬研堀(やげんぼり)で商売を開始したのが始まりと言われています。
七味唐辛子は元々薬研堀周辺に多くの医者や薬局が存在していた関係から漢方の観点で配合するのがルーツと言われ、漢方薬で食事と共に薬味が取れる点やごまの香りが江戸っ子の舌を虜にし、薬研堀の七味唐辛子は一躍名物となり、最上級の材料を客の目の前で注文通りに調合するなどエンタメ文脈でも評判を高めることになりました。
現代にも残る七味唐辛子の伝統を継承する老舗
時同じくして京都の東山区清水2丁目の「七味家」でも、東海道五十三次ができる前から、「河内屋」として薬や草鞋(わらじ)を売る茶屋がありましたが、冬には冷え性の対策として唐辛子を入れたお湯を無料配布するようになり、後の1816年に七味屋と改め、明治中期で七味唐辛子の専門店として名を馳せるようになりました。東京の七味とは異なり、山椒と青のりの香りが効き、薄い味つけの京料理に合った七味で京都の料理人や美食家に好まれるようになりました。
さらに長野県の善光寺にある「八幡屋磯五郎」では、元文元年(1736年)に、鬼無里村の勘右衛門が善光寺境内で七味唐辛子を販売するようになりました。勘右衛門の出身である鬼無里村は、元々有数の麻と和紙の産地で、勘右衛門が江戸で鬼無里の麻や和紙を売りに行った帰りに仕入れた七味唐辛子を善光寺でも売ってようになったのがきっかけと言われています。のちに勘右衛門は「八幡屋磯五郎」の屋号で、一味一味に効能を述べる香具師的な販売形態をとってそれが人気を博すことになりました。現代も七味を使ったチョコレートやハンドクリーム、ガラムマサラなど幅広くスパイスの可能を探求している老舗です。
日本のスパイス文化の代名詞「カレー」は文明開化の味がする
日本の鎖国が終わり明治維新が始まります。文明開化です。
この文明開化により西洋料理として日本にカレーが紹介されました。本来カレーはインド料理ですが、イギリスでは高級インド料理として伝えられ、その流れから西洋料理として紹介されることになったのです。
日本でのカレーはお米を主食としていたことから直接ごはんにカレーをかける「カレーライス」としてオリジナルな食べ方が広まりました。
日本のカレー粉に使われているスパイスはクローブやナツメグ、クミン、ターメリックが主流で、そこに小麦粉やウスターソースなど配合されていることが多いです。
今では皆さんご存知の通り日本の食卓の超ポピュラー料理としてカレーライスは存在しています。
スパイスブームが到来している昨今ではこのカレーライスもより多様化し、世界各国のスパイスカレーが家庭でも多く作られるようになりました。
コメント
Comments are closed.